- 2018.04.21 Saturday
知性に加えて感覚の重要性。感覚についてはスピリチュアルも大いに役立つという話。
先月、春分の日がありまして、春分の日は宇宙元旦とも言われてるようで、その日を境にこちらも更に変化を実感しました。 今まで螺旋の階段を上から降りてきたという感覚なんですが、「更に降りた」という実感がありました。
ただその後、少し自分の中に今までにあまりなかった違和感が出てきたんですよね。
一言で言えば、「今なんでこういう活動してんだっけ?」という感覚ですね。。
こちらも、空気的なエネルギーと固体的なエネルギーとを両方経験してきている様なものですから、先日の変容で更に固体的にもなった分、固体的に目に見えるものだけじゃないスピリチュアルなことが理解できないという感覚も、より分かる様になったからこその違和感という感じだったかと思います。
この数年、大きなエネルギー的変化を体感しています。 簡単に言うと、過去にかなり空気的なエネルギーだった自分が、過去は上に向いていたベクトルを正反対の下の方向に変えて、エネルギーの小ささと重さを日々増...
もちろん、自分の中で多少の違和感が以前よりも強まっても、ちょっと落ち着いて過去から今に至る出来事を頭の中で時系列に並べたら、あぁそうだったよな、、と理解し直せるという感覚はあったんですが、その手間を必要とすること自体に、以前とは違う違和感を感じる状態だったという感じでした。
ただ、普通の状態の時に多少今までよりも違和感があっても、今までやってきた様に、セッションとしてアートを描けばエネルギーは来るし、浄化反応は起きてちょっとしんどくもなるし、そういう面では以前と何も変わりませんでした。
要するに、セッションしたら今までと何も変わらないけど、セッションしてない時に、素の状態で、今までよりもちょっと違和感があるという状態だったんですね。
例えるならば、野球選手がグランウンドで、普通に今まで通りプレーできて、周囲からも特に違和感を持たれないような状況で、ベンチに戻って座ってる時に、「あれ、自分今なんでここで野球やってるんだっけ、、、」とふと軽く疑問に思うような感覚という感じでしょうか。。
ちゃんと振り返れば、昔から野球の練習も積み重ねてきたんでしょうけど、なんかその記憶とか感覚がちょっと今までよりも遠くなって、「サッカーじゃダメだったの?」みたいな感覚でいるような。。
そして、またグラウンドに出れば、身体は自然と野球のプレーが出来ると。
流石に、「ここはどこ?私は誰?」というレベルで、全てがゼロになったような違和感までは無かった訳ですけども、ただ、ちょっとは違和感あったんですよね。。「何で今こういうことやってるんだっけ?」と一瞬考えちゃって、その後改めて記憶を辿れば疑問は解決する程度の。
ですから、改めてマインドマップとか使ってパパーっと過去からの流れを整理したりもしました。過去の記憶が吹っ飛んだ訳じゃないんで、その作業はスイスイ出来て、頭的には改めて整理されたり、多少新たな発見もあったりもしました。
こういう取り組みは、ジャンル分けしたら知的な作業の部類かと思いますが、それなりの成果もあったと思いました。
ただ、そういう知的な取り組みを経て記憶が更に強くなったり新たな気づきもあっても、まだなんか感覚的なものが以前とも違うなぁとも感じたんですよね。 「 頭で分かってるだけではダメ、体で分かってないと!」、という世界ではちょっとまだダメ出しされる程度の違和感が残ってたんですよね。。
そんな違和感もまだ感じつつも、日々の日課となってる自分用のセッションもしてたある日、「そうだ、この違和感についても、セッションしてみよう」と思いついてやってみたんですね。
そしたら、、、、まんまと以前の状態に戻りました。
以前は当たり前だと思ってた状態なんですけど、自分の中で、「知的な面とスピリチュアルな面がより統合されてる状態が当然」という感覚ですね。
こちらも当然に知性も大事だと思ってますし、そこまで馬鹿なタイプでもないと思ってますが、だからこそ、頭でっかちで、特に固体的なエネルギーの人が、スピリチュアルを全否定することも経験則も含めて分かりつつ、「あなたそんなに頭良いの?量子力学とか極めちゃった?」くらいのツッコミは常に普通に準備して、
以前、量子論について本を読んで、その記事を書きました。 とにかく、量子論というのは超ミクロの世界に関する理論で、対象が「1ミリの1000万分の1よりも小さい」ということで、完全に見えない世界で...
現時点の人間の知性ではなかなか解決できない問題をスピリチュアルでこそ解決出来てきた現実もあるんだと思ってることが普通という感覚が戻って来た訳ですね。
今、Creative Arts Showersとしての活動をしてますが、なんでこの活動をしてきたかという理由を改めて書いておきたいと思います。なんというか、最近大きな区切りのタイミングなようで、変容...
今回の自分の中のちょっとした違和感についてだって、マインドマップとかを使って頭使っても完全にはしっくり来なかった問題が、エネルギーワークでしっくりと来るように統合されたわけです。
photo credit: National Institutes of Health (NIH) Neurological connections via photopin (license) 以...
こちらが感じていた最近の違和感というのは、固体的なエネルギーで、かつ、ちょっと知的な方かな程度の男性目線で、自分について常に見ていて、ちょっと知的な文系程度の知性では全てを把握しきれる訳もないスピリチュアルな面について理解出来ずに違和感を感じてたようなものでした。
しかし、その違和感の問題を解決するためのセッション後は、今までの自分のように、知的な面も当然に重視しつつ、文系だけの知性でこの世の森羅万象の全てを把握してる訳ないんだから、、知性で解決出来ないものはスピリチュアルも活用するし、実際に効果あったわい、というスタンスでいるのが普通という感じに戻りました。
上に書いた野球の例で例えれば、ベンチに戻って休んでる時でも、なんで今野球のユニフォームを着て球場にいて、ベンチに座ってるかも、なんの疑問もなく分かってる状態で、グラウンドに出る番が回ってきたら、「よっしゃ行くか」という感じで出て行くような、ある意味野球選手として当然の状態となりました。
その感覚を取り戻すに当たって、言葉での納得というのはそれ程効果的じゃなかったんですよね。。忘れてた知識等は、言葉を読んで思い出せば思い返せますけども、感覚的なものというのは、言葉だけではどうにも完全には戻ってこないと思うんですよね。。。
スポーツ選手でも、昔は悩みなく出来てたことが、途中から出来なくなった時に、長く苦しむことありますよね。。。 もちろん、昔の調子良かった頃のビデオを見返したり、理論を勉強したり復習したり、という努力をする訳ですけど、それでもどうにも戻らないというケースがあるんですよね。。。
知識を忘れたら、また言葉という形で頭の中に知識を入れ直せば問題は解決することがほとんどだと思いますが、感覚というのは、それだけでは解決しないことも多いのではないかと思います。
そして、人生において、知識も大事なんですけども、「自分としてしっくりくるような感覚」というのも結構大事だと思うんですよね。昔の自分も、慢性的に「漠然とした違和感」「うまく説明しきれないけど、居心地が良くない。」みたいな違和感を感じていた訳ですし、その後、結局主に体力的に限界が来て、その限界を超えるために一番役に立ったのが、スピリチュアルだった訳です。
今から思えば、当時抱いていた違和感というものも、エネルギー的な問題が確実に心身に負担を及ぼしているというサインだったとも思えるんですけども、当時は、気合いとか我慢とかで乗り切れるとも思ってはいたんですね。無理でしたけど。
「感覚」というものも、五感以外にも第六感とかも色々言われますけども、人間が健康を維持したり、幸せになるためにも、総合的にどの感覚もかなり大事だと思いますし、これらの感覚が狂うと色々と方向性が狂って来ちゃうんですよね。
例えば、正常な感覚があれば、健康に害となるものに違和感を感じる訳ですが、逆に違和感を感じなくなっちゃうと健康を害する危険が増大する訳です。
今回は、普段のなんとなくの違和感という感覚が無事にスピリチュアルな取り組みによって解消されてめでたしめでたしということでしたが、もしこれが解消されないままでいたら、やはり普通に過ごしてるときに、何かを閃いたりする可能性がグッと落ちてたと思います。普段からある程度、スピと統合された状態でいるからこそ、ふと閃くこととかが今までもあったと思うんですよね。
このブログの記事についても、そういうケースも多かったと思います。普段からある程度スピ的なことも考えてるから、今度あれ書こうとか思いついて、メモしたりしておく訳で。普段から「今なんでこれやってるんだっけ?」という状態で、スピ的な記事なんかも書けないんですよね、苦笑。
他にも、感覚次第で、目に見える結果が大きく変わってくることは多々あると思いますので、今度、感覚を正常に保つ重要性について、さらに書いていこうかな思います。
- スピリチュアル
- 20:48
- comments(0)
- -
- by watarai9